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<ノベル>
強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。
これといって特異な要素のない容貌をしたマイク・ランバスはムービースターであり、牧師であり、保育所の経営者でもある。
保育所といっても大きなものではなく、銀幕市内の雑居ビルの一フロアを借りて保育所兼教会としているにすぎない。この小さな保育所は孤児院も兼ねており、身寄りのない子供たちも一緒に生活しているのだった。
「のびる、のびるー!」
「ぷにょぷにょー」
「ひっぱるなよう、かわいそうだよう」
いつも通りに響く子供たちの笑い声。彼ら彼女らの輪の中心にいるのは、正月の銀幕広場での催し物で色々あってマイクのペットになった餅生物(?)、『ぷにょ』である。生き物(かどうかも定かではないが)を飼うのは情操教育に良いだろうなどともっともらしいことを考えていたマイクであったが、ぷにょと一緒に遊ぶ子供たちの笑顔を見ているとそんな理屈はさして重要ではないように思えてくるのだった。
だが、温和なおもてはすぐに引き締まる。
半分ほど開かれたカーテンから外を覗けば、そこにはあの巨大な絶望の姿。未だ上空に留まり続ける怪物は、銀幕市を破壊するためのエネルギーをその身に溜めている最中なのだという。
「あ、ぷにょ、にげた」
「まてまてー!」
子供たちは窓に背を向けたままぷにょを捕まえ、引っ張り、伸ばし、こね回している。相変わらず元気いっぱいに思える子供たちに訪れたわずかな変化をマイクだけが知っている。
――先生……おそと、こわい。
――おそらのかいぶつ、こわいよ。
マスティマが現れて以来、子供たちは外で遊ぶのを怖がるようになっていた。無理もない。大人の市民でさえもマスティマに怯えて外出を控えているらしい。
「……マスティマ、ですか」
今一度その名を呟き、マイクは静かにカーテンを引いた。
(……やはり)
書物をめくるマイクの手がはたと止まる。
ある市民が投票の場で言っていた。『マスティマ』とは人間の信仰心と善性を見極めるための必要悪の存在なのだと。まぎれもなく神に帰属する者であると伝えられているのだと……。マイクもまた同じことに思い至って調べてみたところ、手元の書物にはまさしくその意味のことが記されていた。
オリンポスの神々の意志も空に浮かぶマスティマの真の存在理由もマイクには分からないし、推し量ることもできない。しかし、あの絶望がマスティマと名付けられたことに何かの意思を感じずにはいられない。
――だが、あれと戦うのか。視界を埋め尽くすほど巨大で圧倒的なあの絶望と。
戦っても勝てるかどうかは分からず、少なくとも、死者を一人も出さずに勝利することは不可能。対策課が打ち出した見解が耳の奥で嫌な残響とともにこだまする。
「あれー、先生は?」
「おべんきょうちゅうだって」
「えー。あそびたいのにー」
「しーっ、しずかに! 先生のじゃましちゃだめ」
ドアで仕切られた隣室では相変わらず子供たちがおしゃべりを交わしているようだ。子供たちの無邪気な声はこの上なくマイクを安堵させ、マイクの心をほぐしてくれる。
その一方で――というよりも、そうであるからこそ、というべきだろうか。マスティマに思いを巡らせる脳裏に子供たちの顔を描く時、マイクの指先は決まってひんやりと冷えていく。
眩暈がしそうだ。どこにも逃げ場はない。この子供たちまでをも危険に晒すというのか?
「あ、先生」
「おべんきょう、おわったの?」
書物を片付けて隣室に戻ると子供たちがとたとたと駆けて来た。先を争うようにしてマイクの足にしがみつき、飛び跳ねる。大きな手で小さな頭を撫でてやると、子供たちはくすぐったそうに、ひどく嬉しそうに笑うのだった。
だが、皆の輪の中に加わらない者もいる。少し離れた場所でうつむき、服の裾を握り締めて黙り込んでいる少年がいる。
「どうかしたのですか?」
問うと、少年はびくりと肩を震わせて顔を上げた。
幼いおもてを覆うのは紛れもない不安と、恐怖の色。
「先生……」
「はい。何でしょう?」
彼の前にしゃがみ込んだマイクはいつものように柔らかく続きを促す。
「先生はムービースターなんだよね」
「ええ、その通りです」
「……いつ消えちゃうか、わからないんだよね?」
――その瞬間、すべての音が遠のいた。笑い声も、おしゃべりの声も、マイクの腕を求めて飛び付く子供たちの足音も。
マイクはわずかに口許を引き締めただけだった。
静まり返った部屋の中に頑是ない、蚊の鳴くような少年の声だけがこだまする。
「あの、かいぶつ。あれのせいで、先生が……消えちゃったら、って」
子供たちが現在のこの状況を正確に把握しているとは考えられぬ。タナトス三将によって“選択”が突きつけられていることすら詳しくは知らない筈だ。
それでも不安なのだろう。得体の知れない絶望の産物が頭上にのしかかっている今、不安で不安で仕方ないのだろう。低気圧のように不安が次なる不安を呼び、巻き込み、膨らんで、小さな胸をあっという間にいっぱいにしてしまったのだろう。
「――おっしゃる通り、私はいずれ消える身です」
マイクの声は深く柔らかで、静かだ。教会で説教をする牧師そのものの声の前で、震える少年は恐る恐る顔を上げる。
「ですが、私の気持ちは以前皆さんにお伝えしている筈です。この場所にいる以上は全力で生き、全力で皆さんと向き合う覚悟だと」
そう――だから、諦めの背を見せることはできないし、見せてはならない。
いつ消えるか分からぬ身である自分を受け入れ、慕い、信じてくれるこの子供たちに、誰かの胸を剣で刺し貫いて、誰かを犠牲にして全てを終わらせると伝えることなどマイク・ランバスには出来得ぬのだ。
「さあ……見られるならば、見てください。あれが向き合うべき相手です」
そして、今。凛と背筋を伸ばしたマイクによってカーテンがさっと引き開けられる。
窓の外、上空にはマスティマ。奇怪で不吉で不穏な怪物の姿。
ひっ、とひきつれたような悲鳴が漏れる。目を塞いだ子供もいた。だが、数瞬のちには、皆が恐る恐る顔を上げて絶望の君主の姿を仰ぎ見ていた。
「戦うのではありません。力ずくで撃破するのでもありません。出来るなら、私はあれの中にある絶望全てと向き合いたいのです。貴方達全てを守ると誓って――」
それはまさしく宣誓だった。聖書に手を置き、イエスの前でこうべを垂れて厳かに誓いを述べる神職者そのものの姿だった。
「今、市役所では神々からいくつかの選択肢が提示されています。しかし私は、神より与えられしものではなく、この地に生きる我々の力と選択により進む道を選びたい。――貴方達の親として、胸を張れるように」
マイクは子供たちの親だ。親とはすなわち標だ。
自分の性を知り、それでも傍で笑っていてくれる子らに、絶望に立ち向かうこの背中をもって報いよう。
「先生」
「先生、先生」
息を詰めていた子供たちが一斉に動き始めた。ある子供は泣き始めた。ある子供はマイクに飛びついた。また、ある子供は拳を握り締めて黙り込んでいた。
だが、誰も彼もがマイクを見つめ、マイクを信じていた。
「こわい……けど」
「先生がいるならだいじょぶだよね」
「先生がなんとかしてくれるよね」
「私だけの力でどうにかなるのであれば簡単ですが」
子供たちを抱き止めつつ、マイクはやんわりと彼ら彼女らの言葉を修正した。
「たくさんの絶望と向き合うためにはたくさんの希望が必要でしょう。できるなら、市民の皆さんと力を、心を合わせてあれと向かい合いたいのです」
票は割れているという。マイクと同じ結論に至った市民がどれだけいるかは分からないが、それでも。
「絶望を絶望のままでなく、その絶望を形成したものと向き合い、希望へと転じたい。残された時間を、そのために使いたいのです」
その後市役所へ向かい、黄金の名を冠する将の前に立ったマイクはそう告げて票を投じた。
天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。
(了)
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クリエイターコメント | ※このノベルは、『オファー時点での』PC様の思いを描写したものです。
ご指名ありがとうございました。お初にお目にかかります、宮本ぽちでございます。 【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。
タイトルは即決でした。父親の背中はまっすぐであるべし。 温和な、しかし凛と背筋の伸びたイメージで描写させていただきましたが…いかがでしたでしょうか。 マスティマを「倒す」のではなく「向き合う」ことを重視されているように感じましたので、そちらの方向で書かせていただきました。
イメージに添えていれば幸いです。 素敵なオファーをありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-05-08(金) 19:00 |
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